どう生きていきたいのか
我々がどう生きていけば、持続可能でより高い幸福度を維持して生きていくことができるのか、ということについて考えてみた。
これは、まだまだ考えている途中だが、ざっくり3つ以下にポイントを挙げてみた。
1.資本からの支配を制限する。
2.純粋経験を大切にする。
3.社会の富の共有
まず、1について、長時間労働や相対的貧困の要因として挙げられるのが、行きすぎた新自由主義だ。これは世の中のものを全て商品として扱ってしまう危険性を持っており、現代社会においてもその負の部分が社会問題として出てきている。本来は政治が機能しなければならないが、ここに疾患があるのかまともに動いていない。
個人の力では政治はどうしようもないので、まずは個人レベルでできるところから考えてみる。当然、資本を制限するという意識を持つことは大切である。その上で、環境の良いところで働くような、自分の都合に合わせて環境を選んでいくことが大切である。日常生活面では、必要以上にモノに溢れた生活をしていないだろうか?もし、室内がドン・●ホーテのような状態ならば、それは資本に支配されていると言ってもいいかもしれない。大量消費の時代であるが、安くて壊れやすいものに頼らず、本当に良いモノを永く使うなどの実践が必要ではなかろうか。
次に、2について。この純粋経験とは、哲学者の西田幾太郎が提唱した言葉であり、ざっくり言えば、綺麗な滝をみた時に、滝という認識の前にくる美しいという感情のようなものである。私は休職してから家庭菜園や散歩など、自然に触れる機会を増やした。すると、忙しいときには全く意識しなかった虫や鳥、夕焼けの景色や土の匂いなど、感性というものを少しずつ取り戻している。この感性こそが人間として生きていくのにとても大切だと思う。
最後に、社会の富の共有である。これは、際限ない商品価値に歯止めをかけるということのほか、公共のものをみんなで使ってより良い社会にしていこうということである。
日本人は弱者にとても冷たいとよく言われるが、これはウチとソトの作用が働いているのだろう。その悪い例が、災害の避難所からホームレスを追い出したことや、公園にホームレスを入れなくしたことだろう。これでは一部の恵まれた人だけが公共を独占しているということになる。そうではなくて、社会的に弱い立場にある人に対して、より多くの援助をすることで、皆が現在や将来生きていくことへの不安を減らしましょうということである。
誤解を招きそうなので記しておくが、これは各々の生活の質を下げろと言っているわけではない。
商品価値に制限をかけ、各々の富の余剰分をできるだけ社会の富に回し、また、自身の感性を尊重できるような生活を目指した方がよいということである。